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平澤熊一記念館

窓辺の熊一窓辺の熊一

平澤熊一記念館

貧しきもの汝の名は絵かきなり

生涯絵を描き売り、それ以外に職業を持たず、家族をこよなく愛した孤高の画家平澤熊一にスポットが当たり始めた今日。不確実な社会にあって人生の生き方が問われる今この時、平澤熊一の作品が世に出たのは必然とも言えるのかも知れない。平澤熊一は権威や名声におもねることなく「貧しきことが芸術を生み、生き方を生む」その姿勢を生涯貫き描き続けた。世俗的な名声や名誉を超越し、自らの絵画の芸術性を追及し続けた平澤熊一はその命が尽きるまで筆を休めることはなかった。

没後21年経った2010年(平成22年)8月~9月に栃木県立美術館学芸員、特別研究員、杉村浩哉氏の手で故平澤熊一の作品や大量の日記、詩などさまざまな資料の調査が行われた。現存する作品油絵282点、スケッチ、クロッキー、リトグラフ(700余点)、そして日記(1934年~1984年(平成元年)5月20日まで)、短歌、メモ帳などが調査された。その調査資料を基に2011年各美術館への紹介が行なわれ、各美術館に作品が収蔵され始めている。熊一は生前「こんなに大きな絵を残しては子供達が困るだろう」と庭先で毎日毎日大きな作品は焼却しながらも、また新たな作品を描きつづけたと言う。

2012年6月8日~7月8日には練馬区立美術館において平澤熊一展「うちのめされた時が人生をしっかり生きるとき」が開催された。当所予定入館者数は3,500人であったが、実際の入館者は、その倍の入館者となり平澤熊一の画業の素晴らしさが来館者の胸を打ったことは間違いない。

2015年4月18日(土)~6月21日(日)の日程で、栃木県立美術館において平澤熊一展「あのころ、苦しくても絵があった」が開催され、スペシャルトークとして学芸員杉村浩哉氏の司会で、平澤熊一の長男(平澤三之助)及び弟子(小林幸正)による公演が開催された。

また、2015年に見附市役所にて紛失されたと考えられていた120号の大作『南苑』が市内公民館で発見された。この作品は1943年美術文化協会主催の第4回美術文化展に出展され、奨励賞を受賞した作品であり、現存する作品の中では一番大きな作品となる。これを契機に見附市のギャラリーみつけで2019年9月7日~29日の日程で平澤熊一画伯の画友であった若井宣雄画伯の作品と併せて「没後30年 平澤熊一・若井宣雄展」が開催される運びとなった。

この度、平澤熊一の芸術性の高さを広めようと発起人一同がホームページを開設する運びとなった。孤高の芸術家、故平澤熊一の優れた芸術の一端でも訪問者の皆様が感じ取って頂ければ幸いである。(本ページのキャッチコピーは1974年5月14日の日記より)


本サイトはリンクフリーです。リンクされた方は是非 Link ページの作品所蔵美術館で実物をご覧頂けたらと思います。

平澤 熊一の芸術

台湾の時代

台湾の時代1928年 〜 1939年
(20歳 〜 31歳)

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東京池袋から長岡疎開時代

戦時中1939年 〜 1949年
(32歳 〜 41歳)

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宇都宮に移住

宇都宮に移住1950年 〜 1959年
(42歳 〜 51歳)

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最盛期から晩年

最盛期から晩年1960年 〜 1989年
(52歳 〜 81歳)

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