宇都宮に移住
「高度経済成長期でも貧しくつましく」(42才〜51才)
妻(きみこ)と熊一1950年(昭和25年)に妻の郷里である宇都宮に移住する。そのころ東京はまだ荒れ野原で、とても絵を描ける環境でなく、また子供も幼かったので、宇都宮を選んだものと思われる。また中央画壇と近からず遠からずの距離は平澤の人生観に好ましい距離感であった。そして、当時の「貧しくつましく」と言う経済状況は、かえって絵を描く原動力となっていた。新天地では仲間もなく、移住直後はこんな詩を詠んでいる「誰も来ぬ、我がアトリエのガラス戸に、クリ虫のみぞ、今日も訪い(トイ)くる」。寂しく貧しい生活を余儀なくされたが、その環境から、また新たな芸術意欲と哲学が生まれてきたのである。「寂しく、貧しく、辛いとき、孤独な時こそ芸術は生まれる。そして人生で経験することには無駄はない、その経験は何時か必ず役に立つ時が来る」その言葉はいつも自分自身に向けられたものであった。そしてその貧しさの中でもしっかりと家族を守りながら芸術活動をしていたのである。
このころの作品はキュービズムに独自の技法を加えた内容となっており、身近な風景を素材にして描かれている。そしてこの素材がその後の作品の支流となってくる。奥深い観察力とその対象物から来る作家の印象がにじみでる作風となっている。観ている側からすれば、その印象を掴み取るのには時間がかかる、しかし一度掴めば虜になる、そんな駆け引きが行なわれるような作品群となっている。
督促状のある静物(1)建築物と月(2)静物(3)国立美術館風景
作品所蔵美術館:
(1) 『督促状のある静物』 練馬区立美術館所蔵
(2) 『建築物と月』 郡山市立美術館所蔵
(3) 『静物』 豊島区文化デザイン課所蔵